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創造と迷走の日々。

02.26.07:43

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09.03.05:33

空に帰る“かえる”。

ふと水槽を覗いたら、蛙が笑っていた。

ペットの擬人化は好きではないが、確かに蛙は笑っていた。
昨日、床材を換えて餌を食べて、丸々と腹を膨らませて、蛙は笑っていた。
頭から霧を吹いてやると、ゆっくりまばたきして、更に腹を膨らませた。

翌日も同じポーズで、蛙はそこに居た。

水槽を爪先で弾くと、喉が動いて呼吸してるのがわかった。

翌日、蛙はそのポーズのまま静かに息をひきとっていた。

今まで見てきた、どの蛙とも違う姿で、胸を張って笑ったままだった。
まるで、死んでる事に自分自身が気付いてないようだった。

この姿を残したいなと思った、それぐらい良い死に顔だった。

なにものにも囚われず、背に翼をたくわえた蛙は、笑顔を残して飛び立った。

**********************
◆生誕祭 アートコンペ「タツコン 2009」
2009年9月5日(土)~9月26日(土)会期中無休 入場無料
AM11:00~PM7:00
(最終日のみ展示はPM3:00まで、PM6:00~パーティー&表彰式)

毎年9月の恒例企画「ギャラリー龍屋よしだたつや生誕記念企画展」
大好評だった「タツコン!!」の第二弾「タツコン 2009」を開催。

テーマは「自由」
自由(じゆう、英: liberty, freedom)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。

http://mixi.jp/view_community.pl?&id=3486240



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07.09.14:09

ノリとしては博物館のお土産物

的なイメージで。

ポストカード作りました(作ってもらいました、かな?)

『こんなのが、どっかの蔵で見つかったらしいぜ!』みたいな感じで使うも可(なんじゃそら・笑)

初売りは21日、たまごの工房ポストカード300人展にて。



06.22.13:50

◆風変わりな骨董屋の偏屈な弟子

先生に師事――といってもしている事は雑用と留守番くらいだけど――して随分経つけれど、先生の言う「ロマン」の一つが僕には未だに理解出来ない。

先生には
“幻想世界に語り継がれる存在を生物学で暴こう”
とするような所がある。
本人曰くそれは「学者気質」のなせる業であり「幻想動物を分析し、確かな存在感を知る」有意義かつ知的作業だそうだ。

先生の事は尊敬しているし、先生の理論が精巧で思わず学者を唸らせる程のものなのは認める。
だけど僕としては……『幻想動物』に憧れを抱き先生に弟子入りを志願した僕としては、何と言うか複雑な思いになる。


ドワーフや猪八戒を遺伝子学と結びつけて語ると人権尊重派が脊髄反射のように顔をしかめるが、僕が抱いているのはそういった人道的嫌悪ではない。

単純に……無粋だと思っている。

幻想動物を聞きかじった素人にはありがちだけど、ライカンスロープとズーノーシスを結びつけて想像するとか……そんなのは、まだいい。
僕が嫌いなのは、神に近き獣いわゆる神獣の存在について、その信仰の出所を「昔の人々が無知故に受けたインパクト」だと主張する邪推だ。


「龍は年経た大蛇を見た者が印象から創作した神獣」
「鳳凰は見慣れぬ異国のゴクラクチョウに魅了された者のイマジネーションの産物」

繰り返すが、こんなのは分析じゃない。邪推だ。
その昔、近代化の渦中にあった日本人にはこういった
“幻想の看破=知”
という風潮があったそうだがこれに良く似ている。
国民総「幽霊の正体見たり枯れ尾花」教。
取り憑かれたように、未知と無知を混同し、また研究とこじつけを混同して知識人を気取っていた。


先生はそんな輩とは違うけれど、先生が変わった生き物を手に入れて「これがあの妖怪の正体だったのだ!」などと興奮する度どこか無粋さを感じてしまうのは確かだ。


龍は蛇という生物を誇張した妄想でなく「龍」であるし、鳳凰はゴクラクチョウの神格化でなく「鳳凰」だ。

野生動物に面影を探してルーツをこじつけるなんて、それこそロマンの対極じゃないか。


……先月の頭、届いた手紙の内容を嬉しそうに語る先生を見た時も、僕は例にもれず不機嫌になっていた。

『玄武』……その名を冠するカメが捕獲されたという知らせが、僕の耳には無粋に耳障りだったから。




玄武。
言わずと知れた、中国・日本に伝わる五行思想の神獣で、青龍・朱雀・白虎とともに「四神」に数えられる象徴的存在だ。

その姿は大蛇のとり巻く黒色の水亀とされ、亀蛇一体で一頭の神獣である。

“玄”は黒――五行では水、北、冬に割り当てられる色――を表し、“武”は武装、すなわち鎧のような甲羅をまとった姿を表している。
武装した黒い神という概念は道教において「玄天上帝」なる北方七宿の武神に転じ伝えられた。


先に述べた通り玄武は方位やエレメントを記号化した“象徴的存在”である。
妖怪のように人々の側に息づく生物的なものではない。従って、玄武を見たとか、玄武を捕らえたなどという記述は残されていない。
当然だ。
玄武は神格のみの存在で生物としての個など持たない神獣なのだから。
人の世に「生息しない」のは当然……のはず、だった。


「玄武は、オオアタマガメを見た者がその奇抜な姿を神格化したものじゃないかと考えた事があった。黒化個体を見たとすれば不自然ではないからね」
手紙の到着から数日後、追って届けられた海外便を開封しながら先生はこう口走った。

オオアタマガメは甲羅に収まらない巨頭を硬い甲殻で“武装”し、ネズミのような長くしなやかな“蛇に似た”尾を木に巻きつけて立体活動するアジアのカメだ。
武装と蛇の特徴。
これが黒化していたとなれば玄武っぽい……というのが先生の考えらしい。

成る程推理ごっことしては70点だ。
しかし幻想動物を語る理屈としては個人的に15点である。
僕は内心でそう嘯きながら、お茶をいれて先生をぼんやり眺めていた。

やがて段ボールの梱包が解かれ、浅く水の張られた水槽が取り出される。

そこには、巻き貝だらけの水草と一緒に、曲頸類と思しき一匹のミズガメが入れられていた。


僕は思わず荷札を確認する。
発送元は中国。先立って先生に届いた手紙にも、中国でカメが捕獲されたと書かれていた。
中国で捕獲された曲頸?
なけなしの知識がやんわりとした矛盾を感じさせる。曲頸は主にオーストラリア、アフリカ、南米に分布するカメではなかったか……


僕はもう一度カメに注目する。
甲長以上の長さの首は、やはり、首をすくめて甲羅に収納する潜頸類のものではない。
だとするとやはり、これは首を平行にくの字ないしS字に曲げて甲羅に沿わせ頭部を守る曲頸類である。

また、色彩は甲羅から皮膚に至るまで黒い。


……成る程。
曲頸の一部を“ヘビクビ”などと呼ぶのは知っている。そしてそれに中国で発見された希少性と体色の黒が相まって『玄武』か。
先生に財布の紐を緩めさせる売り文句だか、珍獣を珍重したり物に神獣の名をつけて縁起担ぎをする中国人の趣味から知らないが、この外見というだけでたかだかカメに玄武の名を冠すとは。

幻想動物に憧れる者として僕は憤りを感じる。
何故素直に“珍種”とだけ呼ばないのか。


そんな僕にも、僕のいれた茶にも目もくれず、先生は水槽を覗き込みカメに夢中になっていた。
「首が長すぎるくらい長いな」
呟くと、手を伸ばしてカメの頭をつつこうとする。
曲頸にしても長すぎる首がどう収納されるのかを見たいのだろう。

……が、カメは首を収納するどころか、長い首を悠々と動かし先生の指を避けた。
再び試す先生、しかし結果は同じだ。
びくりとして首をしまうカメらしい素振りはまるで見せない上、先生の指に触れさせる事さえ無い。
何だか胆の据わったカメだ。
僕がそう思った時、カメは信じられない動きを見せた。
首を曲げたのだ。
曲頸の……平行に折り畳む曲げ方ではない。
縦にくねらせて、そう、丁度記号の“Ω”のように。
もたげた首を途中から曲げ下ろした。
どんなに首の長い曲頸類でもこんな動きをするのは無理だ。首の長さというよりカメの骨格がそれを許さない。


突然、先生がカメをつかみあげた。
胴体を膝に乗せ、片手でカメの顎あたりを押さえると……もう片方の手でいきなりカメの目玉を突いた!

寄生虫でも見つけたのかと思ったがそうではなかった。
先生は繰り返し繰り返しカメの目を指でつつく。カメは手足をばたつかせてはいるものの“目は無抵抗だ”。
瞼を閉じない。
瞬きをしない……

「レンズだよ。それも、かなり丈夫だ」
興奮して僕を呼ぶ先生。先生がカメを持つ、顎を押さえるその手つきが、ヘビを保定する時のものだとその時気がついた。




カメの“カメ離れした首さばき”に魅了された先生は、今度はどう餌を捕らえるかをブツブツ予想しながらカメを運び、庭の池に放した。

庭の池にはフナやメダカがいる。カメの口に入る大きさの魚はたくさんいる。
……のであるが、季節は今、立春前の一月末、冬である。

魚達が池の底でじっと動かず寒さに耐えている水温だ。
魚と同じく変温動物であるカメの食欲がわくような温度ではない。

少し考えれば分かることだというのに、エキサイトしている先生はこういった常識が見えなくなる。
……ほら見た事か。
先生はカメを放した体勢のまますぐにハッとしてつかみ戻しにかかった。

見かねて庭に降りた僕を、先生は急に緊張した様子で手招きし呼ぶ。


先生に促されて見下ろす僕の視線の先で、カメは池の底を歩き、じっとしている小ブナを見据えている……と思った途端、凄まじい速度でフナに食らいついたではないか!!

これには目を疑った。
カメの鼻先はフナから20センチは離れていたのだから。
首を縮めた状態でその距離まで近づき、フナに気づかれるより先に、首のしなりで小さな頭を繰り出してフナを捕らえた。


この瞬間、今まで口にしなかった、思っていても意地でも口にしなかった決定的な言葉が僕の口をついて零れた。
「ヘビだ」

このカメはヘビだ。
カメでありヘビなのだ。


水中にあって尚重厚な威厳のまとうカメを見つめる僕の肩に、今年最初の雪が舞い降りた。

カメの裂けた口に捕らわれた獲物は、長い首の食道を膨らませありありと胴へ飲み下されてゆく。


ヘビの頭部と漆黒の身体。
首をすくめる臆病さを持たぬ武勇は目までを“武装”する。

雪の落ちる水面の下で悠々と練り歩き餌を食らう様は、魚を縛る寒さの呪縛さえ味方につけた冬の水底の支配者。

「玄武」

……以外の、何者でもない。





「寒冷な環境でも代謝を保つ生物の身体について調べてみたんですが、恐らく、血ですね。蛋白質を混ぜて血の結晶化を防ぐ生物がいるそうです」

僕がノートにとったメモを読み上げると、先生は口の端で笑い、頷いた。

「もしくはアルコール、糖ないしグリセリンを血に混ぜている。不純物を多くし凍らない血を作っている、とも考えられる」

机に頬杖をつく先生の手元には、あのカメ――玄武――とともに届けられたメモと写真が広げられている。
「ところで、この写真をどう思う?“玄武”に似ているが、止水域に生息するものだそうだ。若干姿が違っている」

先生の指が示す写真は、庭にいるものと似た、しかし明らかに別の“ヘビの首を持つカメ”が写されたものだ。
毒蛇を思わせる頭、角ばった甲羅が特徴的だった。

「現地では……“吉弔”と呼ばれているそうだ」

言いながら、先生は試すような目で僕を見た。
そしておもむろに立ち上がり、愛用の便箋と万年筆、中国語辞書を重ねて机の上をこちらに滑らせる。
便箋の上の封筒には既に先生の字で宛名が書かれていた。
宛先は中国。
あの“玄武”を送ってきた北方の村の漁師。

「君に任せるよ」
それだけ言うと、先生は庭に出て池の方へと向かって行った。そして、子供のようにしゃがみ込み池を覗き込む。


机の側に立ったまま、先生の残した茶菓子をかじる僕は、持て余している“推理”に思いを馳せた。
(……どちらが基亜種だろう)
頭の大きい“吉弔”が、流水域に進出して頭を小さくナミヘビ型にした?
それとも止水の大型魚を捕らえる為に“玄武”が毒を得、ハブのような頭に進化した?


……いずれにせよ、届いてみれば何らかの発見はある……!


熱にうかされたように万年筆を握り辞書を開いて、僕はふと、皮肉めいた自嘲をもらす。


どうやらいつの間にか、僕はしっかり先生の“弟子”に教育されていたようだ。




06.20.20:50

◆ある怪奇骨董屋の手記。

 私が『妖怪』という存在に魅了されて久しい。
日本の闇に語り継がれる彼ら怪しのもの、それは現代の都市伝説のように、いたずらに恐怖心を煽る出所不明の怪談話とはまるで違った背景を有している。
彼等が人の世で如何にして語られ描かれてきたのか……。
私が骨董商などという商売を営んでいるのも、そんな「妖怪の歴史」を“第一線”で収集する、崇高な目的の為に他ならない。



さて。
世に妖怪を語る者は多々いるが、私の最も嫌うものはそういう輩に少なからずいる“好奇の無知”に満足している博識気取り達の存在である。
こういった輩は総じて、小手先の憶測や創作にまみれた本を読んだだけで妖怪を知ったつもりになり、原典や由来を探ろうともしない。

例えば。
日本の妖怪には“教訓的存在”から生み出されたものが数多いのは事実だが、それを全く異質な妖怪にまでこじつけて語り分析した気になったり、だ。

白容裔という妖怪がいる。
かの鳥山石燕が描き残した一体であり、画集『百器徒然袋』の上で“ふるき布巾のばけたるもの”と記されている。
「妖怪通」を気取る輩にこの妖怪について訊ねれば、返って来るのは
「雑巾や布巾を不潔にしてはいけないという教訓的妖怪である」
「粗末に扱われた布巾が化けた“勿体ないお化け”だ」
という、一見高尚な蘊蓄披露である。

……しかし、石燕の絵にはそんな出自など一切記されていないのだ。

「白うねりは徒然のならいなるよし。この白うるりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ。」
これを読み解けばすなわち、白容裔は『徒然草』に登場する人物のあだ名“白うるり”に、布がたなびく様子である“うねり”を語呂合わせして想像した妖怪である、という事になる。
不潔な雑巾だとか勿体ないお化けだとかという表記など何処にも無い。
漫画や児童書の憶測・創作の情報を仕入れただけで思考停止した「妖怪通」が如何に滑稽な輩であるかこれで分かるだろう。

私にとって白容裔について問う事は、相手が妖怪について真に博識な人物か、それとも付け焼き刃の通気取りかを見抜く一種のリトマス紙のようなものなのだ。



そんな事を考えていた春先の折り、店に一つの小包が届けられた。
差出人は不明。旧家の蔵にあった箪笥の中から見つかったものである、という事だけが、同封された走り書きより読みとれた荷物の出所である。
中身は硝子水槽であった。
虫や魚を飼うときに使われる簡素な透明水槽で網状の蓋がされているのだが、蓋の下に一枚、目の細かいガーゼ地の布が張られている。
このガーゼの意味は一目見て分かった。
水槽の中には蛾と思しき羽虫が無数に飛び回っている。網蓋の目など容易に通り抜けてしまう小さな虫だ。そして、乱暴に丸めて突っ込まれたような布の塊。
かなり古く所々変色しているが、生地は滑らかなシルクのようである。
この虫食いだらけの布が何か価値のある骨董だとでも言いたいのだろうか……

……考えを巡らせる私の前で“それ”は、布で丸め込んで捕らえられやっと水槽に閉じ込められたかのように、古びた布の中で息を潜め、静かにこちらをうかがっていた。



布から鼻先をのぞかせていたそれは、紛れもなく生物の顔形をし、喉元の皮膚をゆっくりと伸縮させて呼吸している事を物語る。
“何かがいる”。
確信し、水槽を傾けて揺すると、それは慌てたように布の中から飛び出し警戒した様子で水槽の側面に身を寄せた。
爬虫類に近い肢体と、水槽の壁面に張りついて止まる様子から、私はヤモリを連想する。
白い皮膚は、ほつれたようにぼろぼろで不揃いである。
ふと机を見ると、小包の箱の中にヤモリの皮膚と似た白いぼろぼろがぞんざいに同梱されていた事に気付いた。
どうやら脱皮殻のようである。
白いぼろぼろはヤモリの古い皮膚であり、目の前の個体もまた脱皮が近いのであろう。
脱皮の近い爬虫類というのは剥がれかけの皮膚を引きずっていてどうにもみすぼらしく見えるものであるが……私は、このヤモリの姿に美しさを感じた。
脱皮前であり、解れたように古い皮をぼろけさせた姿であるというのに、垂れ下がる白く薄い皮膚がまるで羽衣のように見えるではないか。
風にたなびく薄布の風合い……この儚い美しさの佇まいに相応しい名前は一つしか無い。

私は目の前の奇妙なヤモリに名付けた。
「白容裔」……と。

それにしても、小虫だらけで気味が悪い。
見れば、小虫の幼虫らしき小さな芋虫はヤモリの身体の美しい皮膚にびっしりと付着してしまっている。
何よりぼろ布のせいでヤモリの姿がよく見えない。
ケースを庭に持ち出して虫を逃がし、ぼろ布を取り出そうと思い立ち、私がケースを持ち上げたその時、ヤモリがおもむろに首を動かし、水槽の壁面に止まっていた小虫を啄むようにして食べた。

他種のヤモリ同様虫を食べるのであれば、庭の草むらで虫を調達してくれば飼育できるだろう。
目にしたヤモリの行動でそんな安心感も手伝って、私は水槽の中の小虫を全て逃がし、ぼろ布を取り出して捨て、獣医が爬虫類に使う皮膚寄生虫駆除の為の固形駆虫剤を入れて、ヤモリの水槽を静かな土間の端に移した。



翌日、庭で捕らえたバッタを与えようと水槽を覗き込んだ私はヤモリの異変に気付いた。
壁面に張りつく事を止め、底面に降りてしまっている。健康なヤモリならまずとらない体勢だ。
霧吹きをしても水を飲まず、ピンセットでつまんだバッタを目の前に運んでも食べない。
仕方なく数匹のバッタやガを水槽に放し、ヤモリの為に板きれを立て掛けた隠れ場所を作って、その日の世話を終えた。



それから二日経ち、ヤモリは死んでしまった。
水槽の底面に這いつくばったまま、水を飲む事も、虫を一匹も食べる事も無く。
死んで尚美しい、羽衣の如き白い皮膚の痩せた死骸を手にとると、しっとり掌に馴染むように滑らかで柔らかい。
駆虫剤の効果で芋虫は全て落ちている。同時に、爬虫類の皮膚のものではない感触を覚えた。
羽衣の白を指で撫でれば、僅かに糸を引いて剥がれる。
これは皮膚ではない。
分泌物だ。

そう、たとえば、蚕の吐く糸にとても近い――――

私は全てを理解した。
水槽に飛び回り、ヤモリの身体にまでわいていたあの虫、あれは「イガ」だった。
衣蛾。ガの仲間だが、特に衣類、動物質の繊維の織物を食べる種である。
動物質の繊維というのは例えばウール、そして…シルク……
あのヤモリは、イガを専食する生き物だったのだ。
それ故、人の衣装箪笥に紛れるために羽衣のような、布のような姿をしていたのではないだろうか。
更にあの“羽衣”にはもう一つ理由があった。
イガは低温下では休眠し繁殖を行わない。
それを補うものこそ、ヤモリの羽衣状の分泌物。
体表を保温し、更に蚕の糸と――動物質繊維であるシルクと同質の“餌”を纏う事により、冬でもイガを確保しているのだ。
いわば、イガの自家養殖。まさに「イガの温床」と呼べるものを自らの身体に持つ事で、リスクの多い食性を“自給自足”で満たしていたというわけか……――。



あれは妖怪だったのか。
そう聞かれても私には答えられる言葉は無く、そんな質問を投げかける者もいない。

しかし、私は「白容裔」と“呼べるかもしれないもの”をあの時確かに手にしていたのだ。
「白容裔が雑巾の教訓妖怪」
「布巾の勿体ないお化け」
などというデタラメを切って捨てる知識だけではない。
彼が“妖怪”ではなく“生物”かも知れないという真実さえ手にしかけていたのだ。
……しかし、私はそんな“生ける証拠”を、私自身の手で失ってしまった。

何という事だろう。
私が最も嫌う“好奇の無知”を叩き伏せて余りある程の事実を、存在を――いや、羽衣のように儚く美しいあの生物の“命”を。
一滴の水も口にせず屍となった私の「白容裔」は今、桐箱の中で、二度と動かぬ乾いた身体を横たえている。
箱を開ければ鼻をつくナフタリンの匂いとともに、虚ろな顔が私に訴えかけてくる気がする。


「勿体ない。勿体ない」
と。



***********

本日4日目終了しました。
暑い中、足運んでくださった皆様、有り難うございました。

明日も良い日でありますように!

【開催中】
http://69lynx.blog.shinobi.jp/Entry/47/



06.17.17:15

鵺(和訳)

7月2日
変わらずの猛暑。
今日も雨が降らない。空も空気も畑もカラッカラに渇いてクソ暑いばかりだ。
それに比べて、女房は日に日に湿っぽくじっとりした目で俺を見やがる。
分かってる、今年はもう駄目だ。
畑の作物は諦めよう。
俺は、明日にでも列車で町へ発つ。
出稼ぎするしかない。女房子供にひもじい思いをさせるわけにはいかないからな。

7月4日
やっちまった!
仕事が見つからないイライラで俺はどうかしてたんだ!!
チンピラに担がれて参加したポーカーでありったけの金を巻き上げられた。
ああ……スッカラカンの一文無しだ。
ホットドッグ一つ買うメシ代も、町で仕事を見つけるために必要な金も無くなっちまった……。

7月5日
町ってのは暑い。
空腹のせいで、寝ころんで暑さを凌ぐ。
人通りの無いチャイナタウンの裏路地でそうしていたら、昼過ぎだっただろうか、ひょっこり現れた一人のじいさんが冷たいコークを恵んでくれた。
俺がよっぽどまいって見えたのだろう。親切なじいさんは俺を家に招き、メシを食わせてくれ、シャワーにビールまで……
おお神よ!
いや、じいさんよ!!
あんたは天使のような人だ!今は、願っても祈っても雨を降らせてくれない神様なんかより、あんたみたいな親切な人が何よりありがたい!!
じいさんの家は小汚い…いや年季の入った古道具屋だった。
俺を一晩泊めてくれるらしい。じいさんの親切を無駄にしないためにも、明日から真面目に仕事を見つけよう。今度こそ。
7月6日
朝、仕事探しに出かけようとしたら、じいさんに呼び止められ店の奥へと案内された。お礼をしたいと言う。
昨夜リウマチが痛むと言うのでじいさんをマッサージしてやったのだが、たくさん親切にしてもらっているのだ、そんなのはお安いご用だった。
なのにじいさんは
「お礼のプレゼントだ」
と言って、店の金庫にしまわれていた大きな瓶を取り出し、俺に差し出した。
瓶には何か一枚紙が貼りつけられていて、まじないだという。
瓶の中を見ると、見たこともない動物が液体に浸かっている。ガキの頃学校の理科室で見たような、標本だ。
じいさんはこれを
「昔、日本から輸入された、伝説の生き物だ」
と言った。
何でも……日本人には人魚やドラゴンの死体を保存して崇め、雨や治水を願う習慣があるらしい。
この瓶の中にあるのも、雲を呼び寄せる妖精の死体だという。

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